uzulla uzulla

uzullaさんの思い出

初めての約10万円以上の乗り物の思い出

数年前、スバル レガシィのBP型を中古で大体100万くらいで買った、現在も乗ってるので正確には供養ではない(後述)。

最近まで、乗り物買うなら中古を10万位で、と決めていた。10万なら全損しても悔しくないので、気をつかわずに使えるという理屈だ。新品信仰みたいなものはないし、10kmも走れば中古車だし、つまり中古の方がコスパが良いし、機械は必ず壊れるのだから「ハズレの新品より、直しきった中古」のほうがよいと思っている。そもそも、乗り物(つまり機械)を直すのが好きだったので、むしろぶっ壊れてるくらいでちょうど良い。
見た目にもこだわらないので、歴代のバイクは外装はいくらボロボロでもいいからエンジンの調子が良いもの、フレームの錆びていないモノをえらんでいた。

しかし、前述の通り100万のレガシィを買ってしまった。


その前は、フォルクスワーゲンのゴルフ3ワゴンに乗っていた(今やゴルフは7代目の時代である、4代前である)。ギリギリ旧車ではない、という風体だった(本当に風体だけで、中身はゴルフ2と大差なかった)。こいつはヤフオクで10万だった、年式相応ではあるがボロボロで安い、冗談で「ボロクソバーゲン」とか呼んだりした。

ゴルフ3は機械としては本当に丈夫で、ラジエータ周りがぶっこわれて冷却水がほとんど抜けても焼き付きなどせずに走れたし、奥さんがトラックにぶつけても走れたし、スタータのギアが砕けても交換すれば良いだけだった。
修復歴ありで調整してもちょっとばかりまっすぐ走らなかったが、別に気にはならなかった。さすが欧州車であり、非常に安心して高速を走ることができる車だった。この車種は名車といって間違いないだろう。

しかしまあ、丈夫といいつつ、本当によく壊れるのだ。壊れるけど、直せるのだ。直せるのだが、高いのだ。

壊れたモノを直すのが好きな自分にはちょうど良い車ではあったが(パーツも、山ほど出ていたし)、しばらくして自分で直すより、頼んだ方が(工具や手間賃考えると)安くて早いことに気付く。八王子にはゴルフ専門店があり、そこに頼むと大体安く直してもらえる、何回もお世話になった。
しかしながら、数年前の夏、クーラーがぶっこわれた時に見積もりを色々算段すると、元の車が何台も買える程度には(まあ元が10万だからね)修理費用が掛かっていることに気付き、買い換えを決意したのだった。

自分は当時サーバーを積んで移動する事が多かったので、買い換え後もワゴンであることは必須要件であり、さらにゴルフがハイオク指定の癖に兎に角パワー不足(といっても主観です)だったので、なんとしても250ps以上は欲しかった。
壊れにくい国産車で、ハイパワーワゴンで探すと、自ずと選択肢は限られた。総合的に安いカルディナと迷ったものの、ショック等の交換をしてしまいそうなカルディナより、最初から足回りがよく、見た目でも勝るレガシィに決定した。

しかしまあ、人気のレガシィである。予算は10万ではどうしようもないことは自明であった。自分の縛りを一気に10倍にした。100万である。たいしたことないといってしまえばたいしたことはないが、自分は安物好きだったので、自分のタガがはずれるようであり、良い気分はしなかった。

さて、買い換えは成功だった。勿論、レガシィとゴルフ3を比較するなんておこがましいが、レガシィはとにかく壊れなかった。いや、こわれているんだけど大した所はこわれない。一番大きく壊れたのは新東名をとばしていたら、エキマニのボルトがはずれて、加給がかかると直管のような音がするようになった位だった。こんなのは自走できるし、ディーラーにもってったらタダでボルトをつけてくれた。他は消耗品とか、プラ部品が割れたとかそういう所であり、直す気にもならない。
スバル車はやたら壊れると周囲から大評判だったが、俺からすれば完全にメンテフリーかつ故障ゼロの車としか表現ができない(BPまできて、大分マシになっていたというのもあるが)。最高の車である。


色々壊れる車などにのって思うのは、壊れない国産車が最高だと思う。外車は中古車市場でクソ安く手に入るが、数年で必ず駄目になるゴムパイプ一本2万とか頭がおかしいのであり、中古で買って一度も直さないで捨てるくらいの勢いでないと結局高くつく(勿論、値段よりも車体は良いモノなので、中途半端な自動車に乗るよりは体験としては良い)。
わりきるにしても、「壊れてるのが普通」「ここはこわれててもかまわない」「車検の時だけ直す」というのは(自分はいいんだけど、奥さんとかには)よくない。
まあ、そんなの思い入れがあれば大した事は無いのだが、自分はゴルフ3にそこまでの思い入れはなかった。


さて、そんな快調なレガシィだが、ついに総走行距離が10万キロになった。レガシィは10万キロのメンテナンスサイクルでタイベル周りとウォーターポンプ周り一式を交換するのが基本らしい。
タイベルの様子を見ながらギリギリまで乗ったって良いが(最近のタイベルが10万キロで切れるなんて聞いたことない。勿論外車は別だが)、いかんせんレガシィはウリの水平対向エンジンで恐ろしくメンテ性が悪い。ベルトもみづらいし、全部が剥き出しだったゴルフにくらべるとエンジンカバーも付いていて、個人がメンテするのを拒否しているように見える。
プラグ交換の工賃が数万するレガシィは極端とはいえ、国産車のこういう所はあまり好きにはなれない…な…。
まあ、結果として私のような半可通の素人が「壊さず」に済み、そのお陰でメンテフリーなのだといわれればそこまでなのだが。

後、最近は仕事が完全にクラウド化したので、データセンターにサーバーを運ぶ機会がない。つまりワゴン車である必要性が薄い。もっと好きな車に乗ることもできるなあ、そろそろ乗っておかないと乗れなくなるんじゃないかなあ。

とか思う今日この頃であり、供養の日も近いかも知れない。
GTR(<=34)が10万くらいで売っていたら買おうかな。

爆発した鍋ぶたの思い出

台所で突然「ボムッ!」と爆発した。

コンロの横においてあって、しらずしらずに熱されていた鍋ぶたを、なべにかぶせたら急冷されてひずみから破壊した模様。
強化ガラスはなにかあると粉々になると聞いては居たが、なるほどこうなるのかーとおもった。

それ以来、我が家ではガラスの鍋ぶたにかるい恐怖心がある。しかし透明な蓋は便利、これがトレードオフってやつか。
皆さんも気を付けてください。

SIGMA DP2の思い出

基本的にこれを買うまではショボイデジカメしかもっていなかったが、本格的に撮るぞ!と意気込んで買った。

DP2はDP1で評判になったFoveonセンサーをつかいつつ、35mm換算で41mmというほぼ標準レンズの単焦点レンズを備えたカメラだった。
今にいたるまでDPxシリーズはいくつも出ているが、どれも非常にカリッとしたシャープな写真が撮影できることが魅力であり、コンデジの癖してぱっと目にとまるほど、違いが分かる画を出力してくれた(特に当時)。一眼レフと勝負できるコンデジは、この当時これくらいしかなかったと思う。
解像感が高い画、単焦点レンズ、ここらへんはオタク心をくすぐった。

このカメラが良くも悪くも有名なのは、このカメラはかならずRAWフォーマットで撮影し、後でソフトをつかって現像しなければ真価が発揮できない、というカメラだという所で、普通にJPEGで撮影すると本当に微妙な画だった。
(このあたりは、撮って出しといわれる本体に直接Jpeg保存するカメラはある程度は大体同様で、限られたデジカメ内部CPUでのノイズ軽減処理や、Jpegの高い圧縮率による損失で、細部が眠くなってしまう)
ただ、手間をかけてRAWから現像すれば、かなりドラマチックな(言い方を悪くいえば、「それっぽい」)写真も簡単にとれるのがよかった。
これまた写真ヘタでも、パラメタをぐりぐりやればそれっぽいのがとれるという、センスがないオタクでも助かる!という感じだ。(今でいう、なんでもボカせばええやろ!に近いものがある)

しかし、ISOを上げるとすぐに破綻するカメラであり、ちょっとでも暗い室内は、色ノイズがハンパなく乗る。すぐに暗所がまだらになってつかいづらい、フォーカスも外しやすい。つまり天気が良い屋外以外では、どうしたって良い写真を撮る事はむずかしいカメラであった。
ただ、例外として、モノクロだけは多少ISOを上げても良い写真がとれるので(ノイズは乗るが、バンド的なものはなく、素直なノイズだから粒子感(オタクっぽい)が心地よい感じ)、最後はモノクロ(といっても、現像ソフトでモノクロにするのだが)で撮影していた。
AFも遅いので、ずっとMFで撮影するようになった。MFとかではサっと撮れないが、どうせ一枚撮影するとゆったり待たされる(操作が戻るのに、1秒とかかかる)ので関係ないのである。

あと、写真をアップロードして思い出したが、異常にはずれやすいレンズキャップだった。何を流用したかわすれたが、この写真の自動開閉式のキャップを自作するまではキャップがよく行方不明になった。
(コンデジなのに自動レンズバリアじゃないの本当に不便!!!)

兎に角つかいづらいカメラだったが、「使いづらいのが本格的(?)」という、オタクであれば一言で全部納得出来る程度には総合的に満足度が高いカメラであった。


このカメラで綺麗な写真(≠「良い写真」)を撮る快感に目覚めた自分は、その後いきなりCanonの5Dmk2を買って諸々のレンズをそろえたりした。一気に値段は5倍以上したと思う。しかしあのインチキとも思えるDP2解像感や、独特な色(まあこれは現像ソフトの性能かもだが)を超えるのは容易くなかったので、DP2はやはりすごい。

また買うか?と言われると、DP2はコンパクトかつ安価に、凄く解像感ある(びしっときまれば、脳汁がでる感じで気持ちよい)写真が撮れるが、いつでもどこでも思いのままの画を撮ることは不可能なカメラであり、夜行性の自分にはつらかったし、結局等倍が生かせるケースはほとんど無いのがよくわかったので解像番長のFoveonセンサー搭載カメラはしばらく買わないと思う。

最終的に、知り合いに「永久貸し出し」という形で渡した。

アドベントカレンダーの思い出

12/1にいきなりやるぞ!といわれて急にはじめて、最後は彼が書くだろ〜な〜って適当に他力本願してたら、どうやら寝込んでるということで急遽書いて今日おわった。

アドベントカレンダーのタイトルになった自分が書いた本は(言語の)初心者向けではないのだが、「初心者にやさしくない!」と結構いわれたので(まあ、PHPの人は、大体初心者向けの本ばかりよんでいるので、初心者向けでない書籍があるとびっくりするのは理解できる)、そこをすくい上げる事を念頭に置いた。

他の人もガンガン書いたので、ほぼ遅延などなく完了したのでよかった、アドベントカレンダーの闇みたいなものにも特にぶつかることはなかった。

まあ、内容に色々悔いは残らないでもないのだけれど、ちゃんと自分にテーマを課して、それなりに沿った内容でゴールできたのはよかったと思う。

こちらです
http://qiita.com/advent-calendar/2014/webapp_mook

…いや、一番の悔いはほかにあった。あれだけ書いて、自分のブログのアフィリエイトをみるかぎり、自分の所経由だと1冊しか(今の所)売れていない事だろうか…ブクマでも指摘されていたが、「本とかよまないで、人に聞くとはかどる」とか書いたらダメだったのか。世間はきびしい。

明日以降爆売れしてくれることを祈りつつ、すごい大変だったのでさっさと供養したいとおもいます。

サンタさんにもらったプレゼントの思い出

今日はクリスマスなので。
あんまりおぼえていないが、たしかもらったと覚えているものが二つあって、

・天体望遠鏡
・顕微鏡

だった。
今だと渋すぎるラインナップだ。
どちらも本格的なやつで、多分安くはなかったのだと思う。

天体望遠鏡は、いわゆる反射型であり、子供にはかなり扱いが難しいシロモノだった。結局10回もつかわなかったと思う、今思えばもったいない(反射型は窓からどこかをみるにも、上下が逆さまになって面白くないので使い道がないのだ、子供に買うなら、屈折型のほうがいいと思う、倍率の割に高いけど)。
最終的に、肩にしょって、「バズーカ!」とかいっていたのを覚えている。

顕微鏡はプレパラートを10枚くらい割ってプレパラート切れになって、最後にはレンズをグルグルまわして、これも脳内ボトムズごっこみたいな感じをしていたのをおぼえている。

最後に、記憶にあるかぎり、「サンタさん」というのは最初から我が家にはいなかったので、正しくはクリスマスにもらったプレゼントでした。

デジタルマビカ MVC-FD5の思い出

デジカメ黎明期、画質なんかよりも大きな問題が二つあった。

・シリコンメディアがスゴイ高い
・パソコンへの転送が面倒で遅い

スマートメディアとか、CompactFlashとか、そういった不便なメディアか、あるいは半田付けされて内蔵メモリしかない時代(フラッシュメモリですらなく、電池がきれたら消えるモデルもあった)。この頃は本当に本当にメディアが高いし容量もないし、きびしかった。

また、USBなんてものはなく(当然、マスストレージなんて規格もない)、パソコンとの接続はシリアル(あるいはパラレル)で接続して、謎のドライバをいれてつなぐ必要がある時代だった。すっごい不便。
取り込みソフトも恐ろしくデキが悪くて、TWAIN対応のよくわからんドライバの場合は、PSP(おぼえているだろうか、PaintShopProである)等から取り込んだりもしていた。


そんな古代、マビカは最高だった、なにせメディアがフロッピーディスクなのだ。

FDは当時にしても1.44Mbyteしかない容量で、書き込みこそ多少メモリより遅かったが、プラシャッターのものであれば50枚何千円で買えた。FD一枚に2〜30枚くらいとれたと思う(フィルムっぽい!!)。
メモリーカードも4とか8Mbyteくらいしかない時代だったので、断然コスパがよい。

そして、どのWindowsPCにも絶対に3モードFDDが付いている時代だったのだ(97年ごろ、まだWindows98もでていない。国民機PC98は1.44読み込みできないドライブが極希にあったが、この頃には大分勝負がついていた)。
ドライバなんて提供されない、OS/2からでもファイルがコピーできるし、つまり完全なユニバーサルな取り込み環境がついていて最高に便利だったのだ。
友人の家にいって、友人のFDに撮影して渡す、とか(当時なら)本当にイケてたとおもう。


実際、デカイことをのぞけば、本当にこれは使い勝手がよくて、出先でも買い足せるし、いろんなものを撮影して遊んだ。今でもいくらかの当時の写真がPCにのこっていて思い出せる。
当時はまだ「撮れるだけでもすごい!」時代だったので、色とか画質は評価されていない時代だったが、ビデオカメラに似た少々キツイ発色ながら(マビカはビデオカメラチームの開発なのだとおもう)、レンズがマトモだったのか画素のわりには解像感の高い画が撮れた。
自分が触ったのはズームレス(かっこよく言えば単焦点)モデルだが、やはりビデオカメラの技術を生かしたであろうx10ズームモデルとかもあった。

たしかバッテリーもビデオカメラのものが流用できて、当時のハンディカムを使っている人はそのままそのバッテリーが流用できたようにおもう、ただ、めっちゃくちゃバッテリーが持った記憶があるので交換したことはない。さすがSONYである、当時のSONYはすごかった。

手にもった感触を良く覚えていて、フルプラスチックで、でかいけれどスカスカとした感触だった。多分FDDにあわせたサイズにふくらませていたのだろう。
そんな筐体で一枚撮影すると、手の中でマビカがガッギッカカカッと威勢良くなりひびき、保存してるな!と実感できた。FDDに書き込まれていくのは、どこか銀塩カメラの巻き上げにも似た、「撮ってるぞ!」という感じがあっと思う。


まあ、そんなマビカはその後CDRに直接書き込むとか、そういう豪快なモデルもあったと記憶しているが、メモリカードがドンドン安くなるにつれてPC向け汎用メディアを無理矢理つかう意味は無くなっていってサイバーショットに座を譲った。
ただ、ふと気付けば、今のノートPCには大体SDカードドライブがついていて、当時のフロッピーの位置にSDカードがきてるのかもしれないな、等と思った、と、ここに書こうとおもったが…

もはや最近の若い人はiPhoneとかつかっていて、「メディア」という概念すらなさそうな時代だなーと思ったりした。時代は変わる。

スズキ チョイノリの思い出

奥さんがスクーターが欲しいといっていたので、どうしようかなとおもった矢先、知り合いが処分するというので譲って貰った。

知り合いの家は結構離れた所にあったので、チョイノリで乗って帰るのは到底不可能であり、知り合いの家の駐輪場でバラバラにして車に積み込んだのが一つ目の思い出。

二つ目の思い出はセンタースタンドをかけないとキックできないという根本的におかしい設計。一応セルはついていたのだが、バッテリーがあがっていたし、交換する気もおきなかった。
交差点でエンストすると(あたたまらないと、ラフなスロットル操作で結構エンストした)交差点でスタンドをたてるという悠長なことをしなければならず、厳しい。
まあ、車体は非常に軽いので、エンストしたらさっさと走って路肩ににげるのが正解だと気付いたのは結構後の話だ。


チョイノリは自分が乗ったことがある乗り物で最低レベルにパワーがない、芝刈り機だかのエンジンがベースで定格で2馬力。しかも長期間のりつづけると、プラスチック製のカムがすり減ってパワーがおちるという噂もあった。自分の体重だと、軽い登りで法定速度が自動的に守られる勢いだった。
オイルは200ccくらいしかはいらず、逆にこの量のオイルをどうやってちょうど良く手に入れるか悩んだあげく、自分のバイクにいれて、あまっていたお高級オイルをミックスして入れた。
非力なわりにはマフラーが粗末で、非力なエンジンはスロットルは全開か全閉という実にデジタルな操作しか意味がない乗り方だと、深夜の静かな路地もけたたましく走る必要があったので見た目や出せる速度とうらはらに、結構気をつかって乗る必要もあった。リアはリジッド(サスペンションがついていない)なので、兎に角路面状態が悪いと命の危険を感じるし、パワーがないわりにはスリルのある乗り物だったとおもう。

とにかく車体が軽くてかわいい以外いい所無し、しょっぱい性能なので、なんでもいいから改造したい俺はどうにか改造を色々考えたのだけれど、パーツなどほとんどないし、パーツをかえば2倍以上馬力のある普通の原付が買えてしまう。
結局、ハンドルにS字フックをとりつけて買い物を便利にするくらいのカスタムで終わった。


非力of非力な原付でも、最寄りのコンビニ(100mくらい先)や、裏の河原をママチャリのつもりでのるのであれば、まあまあの乗り物ではあった。できるだけ道路をはしらなければ良い原付だとおもう。
奥さんの足としてしばらくつかわれていたのだが、駅前に引っ越したので使われる機会も減り、これまた知り合いへと譲られていった(本当に乗られているのかは謎だ)。

各種規制によってしばらく前にカタログ落ちしており、中古市場も大してもりあがっていないようなので、二度と乗ることはないだろうが、俺というハンデを背負ったら自転車に負けそうなチョイノリは本当に2馬力もあったのかいまだに謎だ。

バジルとしその栽培の思い出

とつぜん奥さんが「バジルとかを栽培してみたい!」というのでプランターや種などを買ってきてそだててみた。

半分バジル、半分しそである。

案の定?奥さんは早々に手入れにあきて、俺がタバコを吸う度に水やりをする、というスタイルになった。

夏の日差しと、間引きがもったいないので手をぬいた状態でそだてたら、画像の通りワッサーーとなってしまって、こんなにバジル食べられるわけねえべ!!という状態になった。バジルもしそも、若葉を超えるとあんまりおいしくないので、いそいでたべないといけないのだ、が、外食が多い我が家でそんなに消費できるわけない。

大量に人にあげたりしたのだが、それでも全然へらない。
しそは使い道がないのであきらめたが、最終的に成長しすぎたバジルはバジルオイルなるものに変化した(そのために、フードプロセッサも買った)

…のだが、食卓にのぼることなく冷蔵庫に安置されつづけている。悲しい。

結論として、バジルやしそは、つかう時にジャストインタイムで店でかってきたほうが便利で良い。

後、プランターと土は処分するのが面倒で、いまだベランダの隅にころがっている。いいかげん供養したい。

Willcomのx4対応ホームアンテナの思い出

前の自宅のまんなかあたりにはWillcomの電波がまったくとどかなく、しかも北側から南側に移動するとハンドオーバーが失敗して通話が切れる、という携帯として最悪に不便な状態になっていたので、ホームアンテナ(レピータ)をレンタルした。
かなりの異形で、なんでこんな形状なの、と思った記憶がある。

W-zero3をつかっているときは、まあなんとなく高速な感じで便利だったのだけれど、結局自分は早々にWillcomを解約したので無意味に。
とはいえその当時の仕事の携帯としてわたされた端末がWillcomだったのと、奥さんが長い事Willcomだったので、念のためとして無駄に高速なx4ホームアンテナ(レピータ)が長い事設置されていた。

奥さんがWillcomを解約し、自分もわたされてはいるもののめったにかかってこないWillcomのために契約しつづけるのはアホらしいので解約した。

こういうのにありがちだが、解約の時に返送の外箱がみつからなくて難儀したのを覚えている(あとでなにげなくきいたら、箱なんてどうでもいい、捨てるから、ということだったらしいが…)

とにかく形がかわっていてデカいだけで、実際にはあんまり体感効果ないし、二人が同時に電話したりするとなんか調子悪くなるなど、イマイチの物体だった。
以後、ホームアンテナ的なものはあまり信用していない。

砂場の思い出

実家の近くにある砂場、まああそんだ記憶があるのだが、砂場は非衛生、という風潮か、はたまた住人の高齢化によって砂場など不要になったのかわからないが、久々にいったら存在が消されていた。

真新しいブロックでかろうじてここになにかがあったことは分かるものの、新しい住人にはなんだったのか分かることはないだろう。

この砂場でなにあkおもちゃをなくした記憶があるが、あのオモチャはほりだされてどこにいったのだろうか…。

セガサターンの思い出

たしか白のサターンを持っていた。

何で買ったのかさっぱりおぼえていないが、クリスマスかなにかでセールされていたのと、多分デイトナUSAがやりたかったのだとおもう。あとセガラリーと、バーチャレーシングと、首都高バトルを買った記憶がある。


ただ、一度しかやっていないのに記憶にあるサターンのソフトは、EVE burst errorである。人から借りて、多分初めてやった美少女系アドベンチャーゲームだったとおもう。面白くて一気にクリアして返した。

後、サターンには当時流行っていた(と説明もいらないであろう)エヴァンゲリオンのゲームが二本くらいあった。
友人に(確か)「音楽(だか、画像だか)データを抜いてくれ」みたいなことを頼まれて、ついでにやってみた。
新しい方(2nd)から先にやって、結構出来がよくて「ホホウなるほど」と思ったのだが、その後古い方をやったら、アニメパートが恐ろしく「コレじゃない感」を感じ、「なんだこれは…」とびっくりしたのをおぼえている。
それ以後、美少女ゲームみたいなものに不信感(?)を覚えるようになった


その後、サターンをもっている友人はサクラ大戦とかにハマったのだが、残念ながら自分はついていけず。共通のゲームをやる人がいなくなってしまったのと、インターネットにのめりこむようになってゲームをやらなくなってしまった。
自分の「次世代」家庭用ゲーム機の歴史はここで一端終止符が打たれる事になった。


つかわなくなったサターンだが、後日インターネットのあやしいサイトを見ていたら、なんとなく改造してみたくなって、「チップ」をいれたりした。
しかしまあ、やることないから改造したのであって、改造したからといって自分がやりたいソフトが増えるわけもなく、再度ゲームにハマることはなかった。

チップをいれたときに、本体に金文字で「Modified」とか転写シールで張り付けたのが、今思い返せば大分痛いな、と思う。

hp ML115の思い出

セールで1~2万くらいで買ったと思う。めちゃくちゃ安い割にはメモリが大量につめるし、当時人気がなくて安かったアスロン64に換装してさらに上をねらえる、というサーバーだった。

欠点は、ファンの端子が特殊だった事で、アスロン64に載せ替え、ファンを大容量なものにかえたら起動せず。ファンコンを入れるのも馬鹿馬鹿しい(安いサーバーなのだから!!)ので常時フルスピードで回していてクソうるさくなってしまった。

そんな感じでメモリを積み、CPUを変え、HDDをRAIDし、OpenVZでいくつものvmをずっと動かしていたのだが、東日本大震災の時に輪番停電に直面した。当然ながら自宅や会社でのサーバーの運用が現実的ではなくなってしまい、その役割を終えた。

実際の所このサーバーはあまり壊れなかったので(良い事だ)思い出は少ないのだが、前述の通り輪番停電によってサーバーを全廃する事になったことから、仕事、私事両方で10台くらいあるサーバーを全部止めた時、自分の家とは思えない静寂が生まれ、強烈な違和感と、えらいことになった…という気分を味わったことが、間接的ではあるが、このサーバーの一番の思い出になっていると思う。

大震災後は私事も仕事もオンプレサーバーからVPSやクラウドへの完全脱却が行われ、私が「物理的に責任を持って管理する」サーバーはなくなった。

そう言う意味では、ML115は私にとっての最後のサーバーの一つだった。

HONDA GoldWing GL1100の思い出

大型免許をとった後、何買おうかなーとおもってヤフオクをみていたら、ボロボロだが、安かったので買った。GL1100のInterstateモデルである。逆輸入車で、メーターはマイルだった(km表示のシールを貼って車検は通した)。

埼玉のバイク屋がヤフオクに出していたのを買ったのだが、店主が凄く変な人だったのをおぼえている(まあバイク屋ってのは、なんだかんだおかしい人がやってるものだが…)。

最初はスゴくでっかいフロントカウルがついていて、高速走行も楽だったのだけれど、フレーム合成がたりなくてどうにもふわふわするし、頭でっかちなスタイルが気にくわなくなったので、フロントライトやウインカーまわりを全部取り替えてネイキッドスタイルに改造した、それがこの写真である。結果スタイリングについてはそれでかなり満足した。

自分の体格はそこそこデカイが、車格がでかいので、ネイキッド的なバイクなのに乗っていてサマになるのはとてもよかった。
(多くのバイクは、人が乗らないほうがカッコイイのだ)


リアにパニアケースが三つついており、かなりの積載量を誇る。トップケースだけははずせるが(写真では外している)、サイドケースは外す事ができない。
エンジンは当時の軽自動車のエンジンの2気筒シリンダを二つ左右につけて四気筒1100cc(当時の550ccの2気筒エンジンを両サイドに、という具合)というふざけた作りになっており、トルクはすごかった、むちゃくちゃ重い320kgくらいある(乗ってる人間を足すと、400kgなんて軽々超える)車体がすべるように加速する。
しかし取り外せない左右パニアケースと相まって、すり抜けなんて絶対にできない車格であり、渋滞にはまるとバイクの良さがないという感じだった。夏の真鶴自動車道路の渋滞は地獄だった。

しかし良いバイクだった、ドロドロという水平対向のジェントルな排気音は回せばさすがホンダでブルルーンと良く回るし、シャフトドライブの妙な癖(BMWにあるような)は、カウンターするように設計されていて気にならない。
水平対向エンジン等の設計から来るの低い重心は予想以上に安定感を生み、ワインディングロードでも楽しかった(とはいえ、センタースタンドが低くて、ガリガリ削りまくるのだが)
勿論、ツーリングに結構いった、特に伊豆半島がとてもよかった。旅行に行くにも(ダサくなく)物がとにかくつめるので最高である。というかまあ、ツーリング以外でこいつにのる気はしないのだが。
自分は後部座席に乗ったことはないのだが、のせた人は揃ってとても楽で景色もよかったと好評であった。

1980年生産のバイクであり、当時にして20年以上経過していたので、ボチボチこわれる所はあった。買って早々(あるいは買った時から)オルタネーターが1相だけ死んでおり、原因をしらべて修理するまではバッテリーが頻繁に上がる(走ってるときは大丈夫なのだが、セルがまわらなくなる)ので、左リアにかならず予備バッテリーと工具一式をいれるという運用をしていた。空いたスペースにはオイルまでいれていた。

あとはキャブレターのフロートバルブがおかしくて、ガソリンコックをONのまま一週間も放置するとシリンダーにガソリンがたまってしまい、プラグを一回ぬいてエンジンをかけないとウォーターハンマーになるという症状があった。
プラグをぬいてエンジンまわすとモノスゴイ勢いでガソリンが噴き出して回るようになる。それは大変危険な行為だが、それをしないとエンジンがかからないのだから参る。
当然、シリンダからクランクケースへガソリンがいってしまい、オイルレベルがあがってオイル上がりがひどく(水平対向なので、上がり、というのがただしいかはわからないが)、一度やらかすと20kmくらいはかるい黒煙を吹き続けるという持病持ちだったのを強くおぼえている。

修理のためには当然様々なパーツを入手しなければならないのだが、残念ながらGL1100は北米向けのモデルかつ、この当時でも旧車だったので、日本のホンダからは出ない。アメリカや、イギリスからパーツを輸入してしのいだ。
(とはいえ、アメリカやイギリスのパーツは本当に豊富で、送料をヨソにすれば、ものすごく維持しやすい車体ではないかと思う)

キワモノなので、そこらのバイク屋に頼む気もしなかった。結局大体自分で直していた。サービスマニュアルなど当然手に入らないので、外車の旧車にのるなら定番のHAYNESのマニュアルを輸入し、にらめっこしながら電圧をはかったりした。

まあ、なんかすごく壊れたように書いてしまうが、バッテリーがあればエンジンはいつもすぐにかかるし、走行できないような期間はすくなかった。ちょっとやそっとではこわれない、流石日本車はちがうな!と思った。


この後、カワサキのZZR400も買い、両方乗っていたのだが、やはりZZR400のほうが圧倒的に普段乗るし、フレーム剛性が高いZZR400のほうが速度を出すなら高速道路も楽なのでツーリングにも使う回数がへってしまい、最終的に高齢でおこりっぽくなった大家に文句をいわれたのもあってヤフオクで手放した。


また手に入るなら乗るか?といわれると乗らないだろう。
なぜなら坂道で頭を下にして駐車すると、死ぬほど大変だというのを何度も味わったからだ。サイドブレーキとバックギアがつくならば、あるいはもう一度乗りたいと思う。

ジオシティーズの思い出

これは本気で完全に供養したいんだけど、ID/PASSを忘れて放置しているうちに、なんだかんだで某書籍の隅っこにうっかりのっかってしまったので供養しきれていない。

仮にサーバーが爆破され、ネットからは消えたとしても、オフラインメディアにのこるとは、怖い。

若さ故のなんとかという奴である。

類似として、Tcupや、Tripodの思い出も供養したい。

京ぽん(AH-K3001V)の思い出

「インターネットに常時接続!!パケット無制限!!フルブラウザ!!」

性能は微妙だったが、これらはあまりにも画期的すぎた。

この当時のフルブラウザとは、あくまでiModeブラウザとかよりもマシという意味だったが(CookieやJSが一部動くとか)それでも小さくて軽い端末で動くのに感動した。

当時、携帯サイトはしょうもないコンテンツなのに課金課金で有料ばっかりうぜえ!みたいなことを思っていたので、こいつはいい!とおもって購入した。
ただ、当時仕事でガラケーサイトもつくっている俺は気付いていた、フルブラウザで必死になるより、携帯専用サイトをの方が速くて快適だという事に…。

なので、結局携帯サイトをメインにみていたのだが、ウィルコム回線はIP制限で弾かれがちであり、結局、利用頻度の高いサイト(たとえば乗り換え案内)はiMode端末をとりだしてやる…みたいなことをやっていて、微妙な運用だった。

さらに、当時ドンドンリッチになっていくウェブ相手に、京ぽんのフルブラウザの性能はいまいちだった、レスポンスが悪くて結構ストレスフル。
そもそもウェブ閲覧で一番つかうキーだとおもうページアップ、ページダウンも専用キーのくせに妙におしづらくてつらい。
一応HTMLのレイアウト変更(今ならリーダーモードとか言うのだろうか)で多少携帯の画面で読みやすくしたり、サーバサイドのリバースプロキシで画像の再圧縮とかのサービスもあったとおぼえているが、焼け石に水だった。

なので、オモチャとしては段々つかわなくなっていき、せいぜい黒板色の掲示板をみる以外は、持ち歩いていたノートPCのモデムとしてだけつかうようになっていった。

最終的には、モデムなら専用端末の方が良いと当然のことに気付き、CF型のAirH"端末に機種変して処分したとおもう。

IBM PC110 ウルトラマンPCの思い出

「とにかく小さいモバイル最高なPCがほしい!」とおもって買った。本当に小さい、感動した。さわってもちはこんで開いてニヤニヤした。しかし、結論からいえば10年速い製品だった。

HPのアレとかにあこがれた上で、あそこまでスパルタンなDOS機のはつらいということでこちらを買ったのだが、こっちのほうが実はスパルタンなのではないか、というシロモノだった。
最初からはいっているOSがDOSであり、謎のランチャみたいなものからPDAっぽいことができるのだが、PDA的なものだけでよければPDAでいいじゃん、という感じだった。

なんと、モニターの前にはスタイラスで入力できるタッチパッドまである先進的なものだったが使い道がなく、PCカードスロットも二つついてる上にCFもささる!というすごい拡張性だったのだが、当時としても非力な486 SXのCPUと、なんだかんだで数百メガないとWindows95(だったか)は入らないのでPCカードスロットを二つつぶす、分厚いPCカード型HDDをささないといけないみたいな色々な微妙にたりないスペック。拡張ポートも本体とほぼ同じサイズのドッキングステーションが必要…という感じであり、あまり活用する事ができなかった。(もし、当時USBがあれば、もっとイケてたのかもしれない)
一点面白いのは、モジュラージャックをつなぐと電話機になるというところだった、時報に一度かけただけだったが。

ただ、(華奢な印象はあるものの)筐体は鉄でできており、手触りが非常によかったし、プチプチと入力するフルキーボードも(入力速度はさておき)とても良いものだった。やはりハードはIBM。


さておき、こいつの思い出もないわけではないのだが、実際には、これを買ったT-ZONEミナミの方が思い出ぶかい。20年くらい前の秋葉原は色々な店があったのだが、個人的に一番好きだったのがT-zoneミナミだった、床面積が多分一番広くて、なんでもそろっているのが最高だった。

当時はまだパッケージ売りのソフトが全盛であり、4フロアくらいあるPCソフトを順番に見ていくのは楽しかった。
「飯を抜いてもナナオを買え!」ではないが、ナナオのディスプレイもここだった気がする。

同様の店として、ザコンがあったのだが、「ザコン?俺はミナミのほうが好きだな」という思考を持っていた、なぜならザコンはガラスケースでしゃらくさく、T-zoneミナミは洋物につよかったからだ。

特に一番上の階にIBMやら洋物のハードが多く販売されていて、バタフライのThinkpadなど、めっちゃ高いエンスー向けのハードが多くおいてあったのだ、あそこは本当に好きだった。IBMのチャンドラとかすごいほしかったし、消滅したCHRP規格の100万くらいするThinkpadもあった。

ただ、時代が流れ、あれ?ジャンクパーツフロアになったな…というころには自分は秋葉原に行くこともなくなった。
駅前のバスケットコートと駐車場はでかいビルになり、T-zoneミナミはラオックス系のよくわからないゲーム売り場になり、ドンキホーテになり、AKBが唄って踊る時代もあったらしいがその頃はしらない。

とにかく、このPC110はこれ自体が凄く思い出深いものにはならなかったのだが、その頃の秋葉原が個人的には好きだったのである。

今の秋葉原がけしからん!みたいな考えは毛頭ないのだが(もう、興味はない)、あの頃のT-zoneミナミとか、ぷらっとほーむとか、あそこらへんの光り輝いた夢一杯感はもう味わえないのだな…と無闇な寂しさが募る。

…いや、今も昔もかわっていないのかもしれない、いまもT-zoneミナミみたいな場所はどこかにあるんだろう、自分の目が曇っただけなんだろうな。
特に強い感動もなく、最新のMacとiPhoneを買い換えている自分に気付く今日この頃だった。

PS/55 noteの思い出

一番最初に使っていたノートPC、Thinkpadの前身のPS/55ノートである。
とにかく真四角で、形はモノリスそのもの、見た目は最高にかっこよかった。
当時(91年頃)を思い出すと、まわりはみなPC98や88などで、自分だけIBMという時代で、内蔵Basicなどもなく、大分ガラパゴス状態だったとおもう。

CPUはたしか386sxの16Mhzあたりがのっていて、メモリは拡張して4MB。HDDも80Mbyteのやつがはいっていたとおもう。
基本的にDos/V、というかPC-DOSでつかっていたが、最終的にはWindows3.1をうごかしていた(が、当時のWindows3.1は特につかいたいソフトもなかったので、もっぱらDOSだった)

搭載されているSTN白黒液晶はものすっごく反応速度が悪く、あらゆるゲームは無理ゲーに近かったが、記憶によればそれでもけなげにWingcommanderやWolfensteinをやっていた。
スイッチ一つで白黒を反転することができて、ゲームによってそれをつかいわけることで多少有利になる、みたいないじましいことをやっていた記憶もある。
しかしRedBaronというフライトシム系のゲームをやるときに、敵機がまったくみえなくなったので、IBMのPS/55 ZEのモニタを外付けディスプレイにした記憶がある。ノートPCではあるものの、兎に角重いし、持ち運ぶ意味など当時はなかったので基本的に据え置きでつかっていた。
よく考えれば今の私はMBPを外部ディスプレイにつないでクラムシェルモードで使っており、当時と似ているかもしれない。

55noteにはポインティングデバイスは内蔵されておらず(DOSのころのPCなので)、サウンドデバイスもない(Beep音は鳴る)ので到底ゲーム向けではなかったのだが、なんだかんだ、長いことつかった機種だった。
キーボードはよくできてるし、ゲーム以外でも簡単な文書作成とかには重宝した記憶がある。

2400bpsのモデムが一応内蔵されていたが、Windows3.1がでるまでは日本語が通る端末ソフトも(知ら)なく、活用はほぼしなかった。

バッテリーがダメになった以外はとにかく壊れなかったが、最終的には分解してあそんだりしているウチに、こわれてしまって処分してしまった。

自分にとっては「ノートといえばIBM」というイメージがつくられた一台だった。

W-ZERO3[es]の思い出

まあ画期的な携帯電話だった、ちゃんと(現実的な値段と手間で)つかえるはじめてのスマホだった気がする。
しばらく愛用したが所詮PHSであり遅い。そしてやっぱりWindowsCEはソフトがない。

W-SIMという超小型PHSを刺してつかうので、これ単体はつまりPDAだったが、あれを抜き差しして活用した、という話はけっきょく聞いたことがなかった。

それでも夢一杯で、色々遊んだ…はずなのだが、結構なにをやったか、という記憶が薄い。色々周辺機器も買ったハズなのだが…。

ただ、物のてざわりはよくおぼえている。ディンプル加工のプラボディはさわっていてここちよかったし、携帯として異様にでかく、にぎりがいがあった(ポケットがパンパンになるのは何だったが)。後、スライド式キーボードがシャキシャキしてたのしかったので、ひまなときにシャキシャキしたという思い出が強い。

折りたたみ携帯のパキパキ感しかり、ああいうシャキシャキ感は最近の携帯にはないので残念だと思う。

Macintosh PLUSの思い出

最初にGUIにふれたのがMacintosh PLUSだったとおもう、というかこれの前はほとんどGUIなどなかったのだから当然だ。

周辺機器は定番が一通りあって、追加のFDDと、20MBのHDD、通称「ちょんまげ」とよばれる電源スイッチ兼ファン、あと、画面が白黒の癖にカラーで出力できるImageWriter IIだ。マウスでなく、トラックボールをつかっていたのもおぼえている。

白黒ディスプレイでミサイルコマンドや、マイクロソフトのフライトシム、リアルな潜水艦ゲーム(リアルすぎて当時よくわからなかった)、謎のサイバーパンクADVなどで遊んだ。
当時は2枚とかのFDDを毎回いれかえていたが、今思えばHDDにいれろよと思う。

フライトシムは当時よくわかってなくて、しばらくの間、離陸はできるが着陸ができず、とにかくなにかにつっこんでおわっていた。
練習して、ちゃんととべるようになったので、じゃあどこまでいけるんだろうと延々とばしてみたが、延々世界の端はみつからずに眠くなって墜落した。生まれて初めての居眠り運転はこのフライトシムだったとおもう。
後に、無限に飛べるとあり(地球は丸いので)、途方なさすぎだろと諦めた記憶がある。

一番思い出にのこっているのはサイバーパンクなアドベンチャーゲームなのだが、完全に名前もわすれてしまった。あれをもう一度やりたいとおもうが、手がかりはまったくない。タイトルにサイバーという単語ははいっていたと思う。
あの頃にリリースされている日本語のゲームソフトはそんなになかっただろうから、調べられるかなとおもっているのだが、当時はインターネットなどないし、ブログや、ゲームレビューサイトなどもないのだから、もはや忘却の彼方である。
(ヘタすると、だれかの個人製作のゲームだったのかもしれない)
誰か知っている人がいれば教えて欲しい。

追記:サイバーな神社にお参りする、という内容だった気がする。

EMONSTERの思い出

すごいずっしりとして、重い端末だった、なげたら武器になりそうだった。

E-mobileの回線は、当時W-zero3かなにかでつかっていたPHSの回線などよりも断然速くて最高なのだが、そこはWindowsCE、やっぱりソフトがあまりにも少なくて結構つらかった。ただ、テザリングはできたのでそこは便利だった。

GPSが搭載されており、画像にもGPS情報がうめこまれるような機能があったとおもうが、まったく活用などできなかったことをおぼえている。

もちろんこいつは電話なのだが、E-Mobileの回線をメイン回線につかうことは難しく、たんなるテザリングならUSBドングルモデムの方が高速で、使いどころに迷走した後、解約か機種変してしまった。

アサヒファイアアームズのM60の思い出

とにかく重い、とにかく錆びる。スキマが多くて屋外でつかいづらい。
そして環境のためにバカでかい圧縮エアタンクで動かしていたが、それとM60を背負って走り回るのは苦行。
これも新婚家庭にあるとおかしいので処分した。

(持って立っているモデルは友人です)

モバイルギアの思い出

無線LANのCFを刺して色々あそんでいたが、某掲示板くらいしか見るものはなく、やることないし、OSをBSDにいれかえようか…などと悩んでるウチに人にゆずった。

キーボードはシグマリオン3よりも断然よく、タッチタイプもできたのだが、結構後期に手に入れたので、いかんせん非力アンド非力。振り返ってもあまり活用したといえなかったのが残念。

HONDA Dream50の思い出

初めてちゃんと自分で所有したバイク(原付)なので色々な思い出がある。
八王子バイパスで、アストロに煽られて切れて<SNIP>kmではしり、追いついて(検閲削除)。いまとなればいい思い出だ

良いバイク(原付)であり、14000rpmまわるエンジンだったが、自分の体格にはとにかく非力かつ窮屈だった。

結構いろんな所に乗っていったし、通勤にもつかったし、なんやかんやバラしてボアアップして、キャブを変え、インマニを削り、ハイカムをいれ、マフラーもかえて、メーターも変えてと色々やったが、オーバーヒートしやすくなったのでオイルクーラーをどうやってつけようかと悩んでいるウチに正気にもどり、原付の限界というものを悟って譲渡した。

ちなみに、主にタケガワパーツをつかった。

アクシア iX-130の思い出

デジカメ黎明期、すごい高いデジカメしかないか、写りがショボイデジカメしかなかったが、iX-130は写りがよくて安かった。

筐体はフルプラスチックでやすっぽく、背面液晶なども一切ないが、本当にカメラカメラしていたのがよかったと思う。

しかしメディアがスマートメディアで不便だったのと、底のフタがすぐにぶっこわれるという欠陥があった。

カトキハジメデザインのマウスの思い出

かっこいいと思って買ったが、まあ見ての通りクソつかいづらかった。一応言っておくと、右上が前方である。

PS2信者だったので、所有していた数少ないUSBマウスだった、つまり起動後に刺しても認識する、そこだけは便利だった。

結局どこかのデータセンターでつかったまま行方不明になったとおもう。

WD Caviar2540の思い出

IDE接続のHDD、今となってはSDカードでも512Mbyteをさがすのはきびしい540Mbyteの大容量だ。EnhancedではないIDEは、これが最後にもっていたものだったとおもう。とにかくこわれなくて、結局最後までこわれなかった。

HDDのラベルに「本当の意味でのドライブパラメタ」がかいてあるのはこのあたりが最後だったと思う。

たしか最後に通電したとき、スピンアップしなかったが、叩いたらうごいた。昔の機械は丈夫だ、今の機械も見習って欲しい。

3comのNICの思い出

昔はNICを選ぶのが常識であり、Intel、AMD、3comがブランドだったようにおもう。自分はintel派だったが、まあやっぱり3comもたしなみとして所有していた。

「Linuxでばっちり認識最高だぜ!最高だ!」
と一言つぶやいて以来、死蔵していた。

PCIバスというものがついたコンピューターが我が家から全廃されたので処分した。

シグマリオン3の思い出

sigmarion IIIは最高に薄くて軽くてよかった。
むずかしいことは考えず、モバイラーを気取れたし、案外つかいやすかった。MP3も再生できたようにおもう。
CFのNICを刺したり、PHSを刺したり、拡張性も抜群。メールとかsshとか、やっていた。

しかしまあ、ソフトはロクなのがなかったな。おぼえてるのはWzEditorくらいか。

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