toya toya

toyaさんの思い出

バンドレンのリードの思い出

中学・高校と、吹奏楽部でクラリネットを吹いていました。楽器というのは割と消耗品が多くて、リードもその1つです。いい感じに音が鳴って吹きやすいリードは、1箱買って1枚あるかないか。クラリネットやサックスはまだいい方で、ダブルリード楽器の人は本当に大変そうでした。

私はバンドレンの「トラディショナル」の3か3 1/2をずっと使っていました。リードをペーパーで削っていい感じにする、というのも何度か試しましたが、どうも削りすぎてぺらぺらの音になったり、割れたりして、全然うまくいきませんでした。

コンクールや定期演奏会の前になると、「吹きやすいリードをいかに多く持っておくか」が大変でした。どんなに気をつけていてもリードは割れるし壊れるものです。体調や楽器の調子によっても音色は変わります。これならいける、というリードを持っておくのはとても大事ですが、とても困難でした。

クラリネットを吹かなくなってもう20年以上経ちますが、未だに「リードがぼろぼろでクラリネットが吹けない」という夢を見ます。リードを買いに行ったのにお店が閉まっていて困る、という夢も見ます。リードを扱うのは確かに大変でしたが、生涯にわたって苦難の象徴として扱うほどのことではないような気がしています。なのに、夢の中でいつも大事な演奏の前にリードがだめになってるのはどうしてなんだろう。

30cm定規の思い出

小学2年のとき、産休の先生に代わってやたら厳しい先生(定年退職済みの人)が来た。よくある話で30cm定規を使ってチャンバラみたいなことをしていたら、取り上げられて、30cm定規で「う す の ろ ま ぬ け」と言われながら7回頭を叩かれた。

その先生は今思い返せば割とやばい感じの先生で、給食中は絶対に何があっても(それが例えトイレでも)食べ終わるまで立ってはいけないと豪語していた。先生に見つからずにいかに食べられないもの同士を交換するか知恵をめぐらせていた。本当にいやな先生過ぎて思い出がそれくらいしかない。

最初のメールアドレスの思い出

人生で初めてメールアドレスを取得したのは大学1年のときでした。大学に「計算センター」っていうのがあって、「電子メールというものを使うには利用申請書を書く必要がある」と聞いて、書類書いて学生証出してゲットしました。「aXXXX@~」だった記憶があります。3桁の前半(a0176、みたいな感じ)でした。

インターネットとは何かも全く分からないまま、UNIXのコマンド叩いてメールを書いて、用もないのに送り付けていた気がします。subjectに日本語書くと文字化けするから使うなっていう注意があったりしました。コマンドはすっかり忘れてしまいました。計算センターの中にMosaicはありましたが使わせてもらえませんでした。

そのメールアドレスは、利用数の増加であっという間に使えなくなって、別のメールアドレスが発行された記憶があります。たぶん1年も使っていなかったのでは(記憶があいまい)。

緑色の傘の思い出

高校~社会人3年目あたりまで、緑色の傘を使っていました。濃い目だけどはっきりした緑。自分で買ったのか親に買ってもらったのかまったく覚えてないです。壊れて捨ててしまいました。

黒やグレーや紺やナチュラル系の色のものを身に着けることが多い人生を送ってきました。緑色の傘を差していた雨の日、誰か忘れてしまったけど誰かに、はっきりした色だと顔色がきれいに見える、と言われて、はじめて原色に近い色を使う良さを知りました。彩度が低いものを買いがちな自分が、ファッション小物に関してはなぜか原色を選ぶのは、この緑の傘と、いいと言ってくれた人のおかげです。

チャレンジャーの思い出

ファミコンが大ブームだった頃、いろんな人の家がゲーム大会の会場となっていた。カセットが豊富にある家は大人気で、いつもいろんな人がたまっていた。その子の家の人はさぞ迷惑していたことであろう。

スポーツ万能で、頭もよくて、ファミコンも得意な男の子がいた。性格が明るくて人気者だった。その子の家にクラスの1/3くらいが押しかけたことがあったけど、お母さんもニコニコ迎え入れてくれた。今思えばとんでもないことしてるな。

「チャレンジャー」といえばハドソンの有名なゲームである。売れたはずだ。なのにチャレンジャーはみんなその子の家でやっていたように思う。なぜか全然わからない。みんなで仲良くチャレンジャーを順番にやって、男の子も女の子(ゲーム好きな女の子あんまり少なかったな……)も楽しく遊んでいた。

その男の子はなぜか、小学校から中学校にかけてのどこかでヤンキーの道に進んでしまった。みんな彼がそっちに行くとは思っていなかった。私も思っていなかった。スポーツ万能で、頭もよくて、性格が明るくて、みんなの人気者だったのに。何があったのかは全然知らない。明るくて優しいお母さんは何も変わらなかった。余計に何があったのか推測さえできなかった。

そり込みを入れて、ドカンをはいて、たばこを吸い、隣の中学とけんかをし、先生につかまり。もちろん勉強もスポーツも真面目にやることなんてない。学校にもあまりこないので、顔を合わせる機会は減った。

たまーに、本当にごくたまに何回か話すことがあった。格好はものすごくヤンキーだったけど会話はごくふつうだった。明るくて優しい。でも“こちら側”には戻ってこない。

高校に進んでからはどういうふうに過ごしたのか、うわさも聞かなくなった。生活圏はきれいに分かれ、道端で会うこともない。そんな風にしてどんどん時間が過ぎた。たまにレトロゲームとしてチャレンジャーが出てくると、あの音楽と一緒にちらっと、その男の子のことを思いだした。

その男の子の記憶が突然外部とつながった。きっかけははてなダイアリーである。
http://d.hatena.ne.jp/toya/20080225/p1

普段読んでいるはてなダイアリーに、突如その男の子が登場した。彼は湘南モノレールのトンネルを駆け抜けた者として、地域住民の伝説となっていたのだった。トンネルに入って怒られたのは知っていたけど、まさか伝説化とは。

はてなダイアリーを介してよみがえった記憶がまた埋もれかけた今年、Facebookの友達候補に、ふとその男の子の名前が出てきた。Facebookならあるあるな出来事だ。小学校の同級生とは、本当にごく一部を除いてまったくつながっていなかったのに、いきなり出してきた。

クリックするか、かなり迷った。自分はこれまでの経緯で多少記憶はあるけれど、向こうにはたぶんないだろう。でもクリックしたら向こうの友達候補に出る可能性が少し高まる。それはそれで面倒だ(よくあることだけど、小学生のときのコミュニティはその親も含めてめんどくさいものだ)。でも多少出るくらいならなんとかなるのでは?でも?

何度かの逡巡を経て、その名前をクリックした。その先には、小学校から中学校にかけてつるんだ仲間と定期的に飲み会をしている様子の、ちょっとヤンキーの名残を残した写真が、何枚もあった。場所は地元だ。彼らは今でいうマイルドヤンキーになっていたのだった。大変典型的なマイルドヤンキーだった。

チャレンジャーを一緒に遊んだときから、もう30年以上経った今まで、こんなに何度も何度も思い出す対象になるとは全然思っていなかった。そのときから一度も、Facebookの友達候補に彼の名前が載ったことはない。

HP Mini 1000の思い出

ものすごく便利に使っていたんですが、どんどん容量が厳しくなっていきました。いろいろ削って、テキストエディタとIEとSkypeだけ(主に)とかにしてもとにかく重くて、自然と使わなくなりました。いまやスマホで十分な感じですもんねぇ、ウルトラブックブームとはなんだったのか……。

W-ZERO3[es]の思い出

もっと手軽にダイアリーとか更新したいんだけど!画像もつけたいんだけど!みたいな欲求があった2006年、本当に理想的な端末でした。ウィルコムとシャープ、時代の最先端を行きすぎたのかなー。今ならアプリでシュッと更新できるので夢のような時代を生きてるなあと思います(老害)

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